Welcome Aboard -旅するために旅をする

現在、絶賛無職中の僕が、世界中を旅するブログです。

失敗など何もない(と思いたい)

シェムリでの日々は慌ただしく過ぎて、YAMATOゲストハウスで働くのもあっという間に最終日になった。まさに「光陰矢の如し」である。ちなみに僕が「光陰矢の如し」と聞いて思い出すのは、高校の推薦入試のことだ。テニスとミニ四駆に生活の全てを捧げていた中学生時代、高校の推薦入試で試験官の先生に「光陰矢の如しの意味を答えて下さい」と問われ、意味を知らなかった当時の僕は矢のように速いミニ四駆を思い描き「はなはだしく速くなることです!」と自信満々に答え、矢よりも速いスピードで不合格を受けとる事となった。。以来「光陰矢の如し」は僕の心に深く刻まれることになった




最終日の夜、長年シェムリで暮らしていた早織さんの友人のアズさんが帰国することになり、ついでで申し訳ないけどと言った感じで僕のお別れ会もしてくれることになった。もはや顔馴染みになった人達とYAMATOで飲み、続いて早織さんのお知り合いが経営していると言うゲストハウス兼飲み屋に向かった。そこでケンタさんと出会った。ケンタさんは日本人とアメリカ人のハーフで、年齢は30ぐらい。おしゃれな雑誌から飛び出てきたような服装をしていて、イケメンのお手本みたいな人だった。頭も切れて、英語もペラペラ。もちろんシェムリアップの王子ランキングも堂々の1位だ。僕らが合流した時、ケンタさんは男女7~8人の日本人大学生らしき人達と何やらゲームをして盛り上がっていた。覗いてみると、そのゲームは昔懐かしの四並べだった。


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ただ、普通の四並べではなく垂直四並べだった。基本ルールは、四目並べと同じで、二人で交互にコマを置いていき、縦、横、ななめいずれかで4個のコマが並んだら勝ち。普通の四目並べと唯一違うのは、マス目が垂直に立っているので、マスが下から埋まっていくということだ。
たったこれだけの違いなのだが、やってみると全然違う。
相手の狙いを防ぎつつ、うまく並べることが必要で「これはもらった!」と思っていると、いつの間にか相手のコマが4つ並んでいることもある。

早織さんによるとケンタさんはこのゲストハウスを定宿にしていて、泊まりにくる観光客をカモにゲームをして荒稼ぎしているらしい。

一夜にしてカンボジアの平均月収ぐらい簡単に稼いでしまい、その稼ぎっぷりの悪名高さはシェムリアップに知れ渡っているとか、いないとか。

僕らはケンタさん達と少し離れた席で飲んでいたのだが、ふと気が付くとケンタさんがこちらに手を振っている。その顔には100万リエルの笑顔が輝いていた。僕も礼儀として、10万リエルぐらいの笑顔で手を振り返えした。するとケンタさんに「おめーじゃねーよ!!」と一喝されてしまった。どうも隣の早織さんに手を振っていたらしい。

「気にしないでねー」と早織さんに笑顔で言って貰い、どうにか体勢を立て直すことができた。もはや2リエルぐらいのあいまいな笑顔を作るしかない。

勘違いした僕も悪いけど、あの態度はない。

久しぶりにケンカを売られた気がして、ドキドキした。少々失礼なことを言われたからといって目くじら立てず笑顔でやり過ごすのがスマートな大人の作法だろう。だが、スマートでなければ、大人になりきれていない僕には、作法なんて関係ないのだ。ケンカに乗ることにした。そもそも観光客をカモにする姿勢が気に入らない。義憤に燃えた僕はなんとかケンタさんにギャフンと言わせなければ気がすまなくなってきた。まぁ、実際に口に出して「ギャフン」って言って貰ってもどうすれば良いのか困ってしまうのだが、とにかく一泡吹かせたい。そこで僕はケンタさんに垂直四並べで勝負することを申し出た。

と言うのも勝算が無いわけではないからだ。実はこの垂直四並べは、子どもの頃の我が家における最高の娯楽システムである人生ゲームEXを越えるほど流行したゲームであり、僕も腕前には自信があったのだ。勝負は2回行うことになり、一回目は5ドル、二回目は10ドル賭けることになった。(カンボジアでは普通に米国ドルも流通している)

垂直四並べの基本は先手を打つこと。先手が圧倒的に有利なゲームなのだ。

それを知っていた僕はケンタさんに「先手打たせて貰って良いですか」とお願いをした。勝負は進んでいき最終的に1例残すのみとなった。交互にコマを打ち先にケンタさんのコマが4つ並び勝利した。負けはしたものの予想外の接戦にギャラリー達も興奮気味。「潤さん、すげー」「俺達の敵をとってくれ」と口々にした。何だか僕も負けたみんなの分の戦いを背負っているような気分になってきた。「地球のみんな、オラに力を分けてくれ!」と叫んだ時の悟空の気持ちが完璧に理解できた。勝負事においていかに仲間を増やすかは勝敗を左右するもっとも重要なことの一つと言える。かの石田三成関ヶ原の合戦で「鶴翼の陣」という手法で戦ったのは有名な話である。「鶴翼の陣」は、鶴の左右の羽のように、周囲をとり囲むようにして隈無く陣を張って戦うという戦略だ。要するに味方で敵を包囲しようということだ。周りのムードも流れも完全に僕に来ているような気がしてきた。しかし、そんな時に僕を応援していたはずの大学生の男の子の一人が酔った挙げ句にスマホで四並べについて調べ、「先手、且つ第一手を中央のマスに置くことができれば、相手がどのように打ってきても絶対に勝てるアルゴリズムが開発されているそうです。」とまるでスポ根マンガにおける頭脳派解説役みたいなことをしゃべったお陰で、僕はもう一度「先手で打ちたい」と言えなくなり、結果じゃんけんで先手を取られ、嘘のようにぼろ負けしたのだった。その時、関ヶ原の合戦で、どう見ても陣形では東軍の徳川家康に勝っていた石田三成が、友軍・小早川秀秋の裏切りにより敗れたことを思い出し、歴史は繰り返すと涙を飲むことになった。涙だけだなく、今なら実際に口に出して「ギャフン」と言っても良いぐらいだ。

ケンタさんに敗れ哀れ遁走することになった僕だが、考えてみればこんな風に失敗することも悪いことばかりではない。みんなで楽しい時間を過ごせたし、ケンタさんに対しても、もはや怒りの気持ちも薄れていた。昔から「人の振り見て我が振り直せ」と言うが、まさにその通りで横柄な態度をしたら相手は嫌な気分になり嫌われてしまうと改めて思いしらされた「教えてくれて、ありがとう」という寛容な気持ちも少し産まれた気がする。捉え方によって失敗は有効な道具になる。人生、あえて死なない程度に失敗するのも悪くないのだ。(と思いたい)



・シェムリアップの王子

「よし!」と言葉に出し、勢い良くタケオゲストを後にする。勢いでもつけないと宿に戻って、ベッドにごろんと寝ころんでしまいそうだった。
YAMATOゲストハウスに歩いて向かう。鼻息荒く出たものの、タケオゲストから3分ほどで着いてしまった。目と鼻の先だったのだ。
ゲストハウスに併設されているレストランを横切り、受付にいるカンボジア人の男性に話しかける。「ここで働かせて下さい!」と「千と千尋~」の千尋ばりの必死さでお願いをする。
しかし、男性は困り顔だ。そう困られても困ってしまう。「ちょっと待ってて」と言われベンチに腰かけて待機する。
しばらくして日本人の女性がやって来た。とりあえず湯婆婆ではない、綺麗なお姉さんが出てきて安心した。お互いに自己紹介をする。ゲストハウスとレストランの経営をしている女性は早織さんと名乗った。僕は早織さんにもう一度「ここで働きたいんです!」とお願いをする。しかし、早織さんも困り顔。「いつもはワークアウェイ募集してるんだけど、今ちょうど2人入って貰ってるのよね」との事。断られるかと思ったけど、僕の謎の必死さが伝わったのか、早織さんは「まぁ、いいか!働いてもらいましょう!今から大丈夫?」と言ってくれた。
5時間働く代価として、宿泊させて貰え、昼と夜まかないが出るようだ。
まず、僕は受付とドミトリールームの清掃を任された。
受付から書類の整理と清掃を始めると、何だかだんだん乗ってきた。
普段は身の回りの整理、整頓に無頓着な癖に、一度スイッチが入ると掃除を完璧に仕上げたい人間がいるが、僕はその典型だった。
僕は落ちてるホコリをまるで
親のカタキのような執念さで追い詰めて、端っこに固まってようが、棚の裏に隠れてようがキレイに拭き取ってやった。ドミトリールームの清掃に移ると、昼過ぎなのに結構みんな寝ていた。「やれやれ、こんな時間まで寝て過ごして、しょうがない奴らだな」と昨日までの自分を完全に棚において心のなかで呟いた。掃除が一段落してから、今度はレストランの手伝いをすることになった。僕に仕事を教えてくれたのは、さばさば系女子のサイーンと、癒し系イケメン男子のプリンだった。2人とも高校生で、本当に良い子達だった。
サイーンはあれやって、これやってと、さばさば指示してくる感じ。逆にプリンはいつもお願いする感じ。それに「潤さん、仕事覚えが早い、賢いですね」と誉めてくれ、低姿勢だ。何だかこそばゆい。
ちなみにサイーンは、自分の出身の村に早織さん達が支援して、小学校を建設して貰った過去があるらしく、その縁で働いた。その為かシフトに入ってない時でも自発的に手伝いをしていた。
また、プリンはレストランで働いて、自分で学費を稼いでいるらしい。朝からゲストハウスで働き、昼から通学していることが多いようだった。
何となくだけど、プリンはサイーンに好意を持っているような気がした。同じ場所で働いてるのも「気になるあの娘も注文取ってるし。。」的な思惑が見栄隠れしていた。そんな2人のやり取りは観てて、面白かった。僕は人知れず、プリンの恋がうまくいくように祈った。(全然、思い違いかもしれないけど)
しかし、そんな2人を面白がって観てる場合ではなかった。夜になり、レストランにお客さんが大挙してやって来たのだ。しかも、こんな日に限ってスタッフが少ないらしい。僕は注文を取ったり、接客したりするホールの仕事と、皿洗いやドリンクを作るキッチンの仕事を同時に教わりながら覚えていった。てんてこ舞いになりながらも、何とかこなすことができたと思う。こんな風に何とかこなせたのも、学生時代に何年も飲食店で働いていたお陰だろう。八王子駅近くのバー「ガリバー」を思い出す。前本店長、あなたに教えて貰ったことが、こんな時に役にたちましたと伝えたい気持ちになった。一段落した頃、早織さんが声をかけてきた「潤君、今日はありがとう。長く働いて貰っちゃって、ごめんね」と労ってなくれた。確かにあっという間に時間がたっていた。最初に説明を受けた、労働時間の5時間は5時間前に過ぎていた。「いえ、楽しかったし、全然大丈夫です」と本心から言った。「明日も何時間でも良いですよ」と続けたら、早織さんも意外だったようで、面白がってくれた。今日のお礼と言うことで、早織さんからお酒をご馳走になる。
早織さんの友人も加わり、楽しく飲み会は続いた。「潤君、カッコいいね」「シェムリアップの王子に加えよう。(何かそんなのがあるらしいです。ちなみにプリンも王子認定済み)」と口々に言ってくれた。美人なお姉さん達に、カッコいいと誉めて貰えたら、悪い気はしない。

すると、仕事を終えた女の子達がカメラを持ってやって来た。僕と一緒に写真に写りたいのだなと思い、襟元を正す。よろしい。シェムリの王子と写真を撮ろう。
しかし、彼女達はカメラを僕に手渡してきた。どうやら写真を撮って欲しいだけのようだ。なんてベタな勘違い。アルコールとは違う理由で顔が赤くなる。日本から遥か離れたカンボジアの地で、僕は自己愛の大きさに気づかされた。どうせならもっと自分を愛そう。


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次の日は、本棚の整理から始めた。YAMATOゲストハウスはタケオゲストハウスと同じく、たくさんのコミックや小説が置かれていたが、利用者が適当に戻す場合もあって、巻数が順番通りになってないものがほとんどだった。僕はそれを1巻から順に並ぶように直していった。(こんなに、こち亀の巻数の多さを呪ったことはない。)ただ、巻数を正すだけでは、もったいない気がしてきた。見つけることができなかった漫画のタイトルと、何巻がないかメモって早織さんに渡すと喜んでくれた。
続いて翻訳の仕事。早織さん達が作っているシェムリアップの情報紙、「くろまる」の英語版の翻訳をお願いされた。僕の英語力はそれはもうひどいものなので 、慌てて「できないですよ!」と言うと、翻訳と言っても、実は知り合いの英語が堪能な人にすでに翻訳してもらっているものがあるのだが、印刷されたものと、その翻訳してくれた人の原文を見比べて、印刷ミスがないかチェックをするついでに、もし翻訳ミスに気づいたら教えて欲しいとのことだった。僕は胸を撫で下ろす。しかし、印刷ミスを探すのも大変で目がしばしばしてきた。なけなしの集中力を使いようやくチェックを終えるとまた、レストランの仕事に戻った。
レストランにやって来るお客さんも働いているスタッフも面白い人が多くて、僕は好きだった。
お客さんは、様々な理由でシェムリアップに住み着いた日本人も多かった。昔、テレビの企画(電波少年)でアンコール・ワットへ続く道の舗装をして、そのことがきっかけでシェムリのガイドを始めた人。シェムリが気に入って、オフシーズンになると毎年やってくる旅人などなど。
スタッフでは、同じワークアウェイ仲間の女の子2人も明るくて、面白かった。メキシコからやって来た学生パッカーのサンドラ。ビーガン(完全菜食主義者)でスウェーデン出身のルイース。面白い出逢いが山のようにあった。そのことを早織さんに話すと「そうでしょ。YAMATOには魂のレベルが高い人が集まるのよ」と言っていた。魂のレベル。。僕には何だか良くわからないけど、仮にそんなものがあったとして、僕の魂のレベルは、あんまり高そうじゃないなと思った。
しかし、偶然でもYAMATOに集まっている1人として、水をさす訳にはいかない。僕は魂高めの目線を作って「本当にそうですね」と答えておいた。


数日が経ち、シェムリアップ複数のゲストハウスを展開し、YAMATOのオーナーでもある西村さんがやって来た。早織さんが僕のことを誉めてくれて、それを聞いた西村さんが「今度、東京にゲストハウスを進出させようと思ってるんだけど、スタッフとして働かない?」と誘ってくれた。
リップサービスだとしても、有りがたい。誰かに必要として貰えたのが嬉しかった。取りあえず、旅が終わったら連絡して欲しいと言われた。
しかし、明日どこで何をやってるのかわからないのに、半年後の自分なんて、今は想像もできなかった。

それから更に数日間、僕はYAMATOで働いた。
僕は思った。自分はただの旅人で、すぐにここから去ってしまうけど、ここで出逢った人達には、いつまでも僕のことを覚えていて欲しいと。それ以上の強い気持ちで、僕も彼らのことをいつまでも、いつまでも忘れたくないと思った。この文章を書いてる今、すでにカンボジアを去って数ヶ月が経ってしまったけど、僕は今でも、YAMATOのスタッフやお客さんとFacebookなどで繋がっていて、彼らは僕に生きた情報をくれ続けている。たとえか細い繋がりでも、いつまでも繋がっていたい。
甘いかな。でも、今は、その甘い考えを信じている。

・沈没者たち

‘沈没’と言う言葉をご存知だろうか?海外においての沈没と言うのは、いわゆる外ごもりのことだ。
安くて快適なゲストハウスに引きこもり、大抵は何をするでもなくのんびり過ごすことを言う。シェムリアップはそんな沈没者がたくさんいる街だった。しばらく滞在して、その理由がなんとなく僕にもわかった気がする。
アジア最大級の世界遺産アンコール遺跡郡があるだけでなく、きらびやかなパブストリートや大きなデパートがあって程よく栄えている。しかし、少し移動すると郊外には美しい農村が広がっており、田舎の弛緩した空気がなんとも心地よい。シェムリアップでは旅を一旦ストップしたくなるのだ。

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そんなシェムリアップで、僕が沈没者たちに出会ったのは日本人宿だった。
せっかく海外にいるのに、
日本人とばかりつるむのはもったいないと思い、今まで利用していなかったが、考えてみれば日本人宿にいる彼らだって、海外に来たからこそ出会える人達と言うことは変わらない。日本人、外国人と区別することないや。
なにもそんなに片意地はらずとも良いではないか。
それに日本人宿は清潔で、泊まっている日本人から旅の情報を得られると言う話を聞いていた。
と言うことで初めて日本人宿へ行ってみる。ネット調べたところシェムリアップには有名な日本人宿がいくつかあった。その中のひとつタケオゲストハウスに行ってみる。エントランスに到着すると、右を見ても左を見ても、どこを見ても日本人しか居ない。
すれ違う人達に「こんにちは」と挨拶するのが、妙に恥ずかしい。
受付をしていると、後ろから60歳をいくらか過ぎたぐらいの胡麻塩頭のおじさんに話しかけられた。バッグからサイフを取り出す僕を見て、「現金、パスポートなんかの貴重品はカバンじゃなくて、身につけてなくてはいけない」とおじさんが注意してくれた。その他にも旅の危険のあれこれにについて、いろいろとご教授してくれた。僕は「はぁ、ありがとうございます」と礼を言う。
ドミトリールームにいる日本人達と話しをする。
「もう長老には挨拶した?」と聞かれた。完全にスタッフと思っていたが、どうやら先程の胡麻塩頭のおじさんが長老らしい。
もう10年もシェムリアップにいるらしい。
長老いるんだ、日本人宿。
僕はタケオゲストで2人の日本人と仲良くなった。
学生パッカーの楠君、長期休みを利用して東南アジアを回られている小野さん。僕らは1日の多くの時間をゲストハウスで過ごした。僕の場合は涼しい午前中はゲストハウスで借りたチャリでシェムリアップの街をぐるぐる周り、暑くなる昼過ぎには戻り、宿に置いてある小説や漫画を読んで過ごした。僕はタケオにいる間に3冊の小説「旅のラゴス」「夜のピクニック」「真鶴」とゴルゴ13を中心に多くの漫画を読破した。
夜になると小野さん達と楠君と一緒に飲みに出かけた。
小野さんの話が為になっておもしろかった。アジア旅行で節約する方法、シェムリで1ドルステーキを食べれる店なんかを教えて貰った。
そんな安心、快適な沈没生活の天敵はトンとナリだった。


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タケオスタッフの子供達なのだが、昼過ぎに宿に戻ると大体ドミトリールームに侵入している。そして、僕のベッドに我が物顔でデンと座っている。
「そこ僕のベッドなんですけど。。」とお伺いをたててもお構い無し。
僕を見つけると、おもちゃの銃で撃ってくる。僕は「うぁ~やられた!」と倒れる。起き上がる。撃たれる「うぁ~やられた!」と倒れる。起き上がる。撃たれる「うぁ~。。以下繰り返し。
彼らは飽きるという概念をどこかに落としていて、ひたすらバンバン撃ってきた。
えっ、これ面白いかい?
あと、彼らのお気に入りはスマホのゲーム。僕にやらせてくれる訳ではなく、自分達がやっているのを見てろって話しらしい。サメを操作して、ダイバーを食べると言う無駄にグロテスクなゲームを彼らが納得するまで僕は見続けさせられた。
えっ、これ面白いかい?
散々一緒に遊んだのに、楠君が宿に帰ってくると、ふたりとも一目散に彼の元に駆けつけた。楠君は子どものあやし方が上手で楽しそうに遊んでいる。僕は安堵しながらも、ちょっと寂しくて、大人げなく嫉妬したりした。完全にやつらに踊らされているではないか。
あと、シェムリで出会った印象的な人は、右翼おじさんと折り紙おじさん。
ある日スーパーに買い物に行くと日本人のおじさん連中がいて声をかけられた。
その中の一人がなかなかのライトウイングな思想の持ち主で、その愛国心溢れる主張を聴いていると、我が国を憂う前に、何だか頭痛がしてきそうだった。右翼おじさんにはカンボジア事実婚している現地の奥さんと複数人の愛人がいるらしい。そのお年で凄いちゃ凄いけど、持って産まれたバイタリティーをもっと別のことに使えば良いのにと思った。もちろん、思ったこと全て口に出すほど礼儀知らずじゃないけど。。
折り紙おじさんは、世界中を旅していて、「僕はまったく外国語をはなせないけど、僕にとっての言葉はこれなんです」と折り紙をみせてくれた。凄く複雑で立体的なカニやら飛行機やら船なんかをぱぱっと作ってくれた。折り紙を通してどの国の人とも仲良くなって、作った折り紙を渡すと大抵、宿やご飯を提供して貰えるらしい。「芸は身を助ける」とはこのことだなと思った。簡単な折り紙をいくつか教えてもらった。ちなみにおじさんから貰った折り紙をトンとナリのタケオチルドレンの2人にお土産に持って帰ると喜んでくれた。にんまり。


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僕は、しばらくタケオに滞在して沈没生活を楽しんだ。
しかし、人間おかしなもので、ずっと休んでいると、今度は無性に働きたくなる。小野さんにそんなことを言ったら「シェムリで働けますよ」と教えてくれた。
タケオゲストハウスから、歩いてすぐのYAMATOゲストハウスでスタッフを募集していて、働けるらしい。
しばらく休んだ僕は、今度はしばらく働いてみることにした。
タケオで顔馴染みになった人達に挨拶して別れる。
ゲストハウスでの自堕落な日々は僕に、労働があるから休みがあるという当たり前のことを教えてくれた。
人間、きっと、休んでばかりも働いてばかりも駄目なんだ。バランスが大事。本当に当たり前のこと何だけども妙に納得してしまった。

こうして僕は愛すべき沈没生活と沈没者たちに別れを告げた。

カンボジア編 ・旅の理不尽

カオサンからカンボジアシェムリアップまで、国境を越える国際バスで行くことにした。
ポイペト国境を越えて、ビザを取り、カンボジアへ入国する方法だ。
そう言えば、陸路で国境を越えるのは初めての経験であり、僕は意味もなく感動した。島国で生まれ育ち、国境を持たない日本人だからだろうか、国境と言えば、絶対的な境で地面に線でも引いてあるかのように厳格なものだと思っていた。
しかし、実際にはどうも違うようだ。現代の関所、国境はゆるゆるなのである。雑多な人々や、さまざまな物資が行き交い、両国の通貨・言葉が通用する。
そして、この街に住んでいる両国の人々は行き交い自由なのだ。なんと言うイイカゲンさだろうかと思った。
僕らも歩いて国境を越える。国が変わっても街並みも何もまったく変化はない。人々は同じ暮らしをしていて国境とは何かと少し考えさせられた。

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シェムリアップに向かうためバスを乗り換えたのだが、運転手にID見せろと言われた。どうも国境を越える前に乗客に渡されたらしいのだか、おそらく僕はトイレに行っていたので貰い損ねたようだ。すると白人のお姉さんが「その人も同じバスでここまで来た」と説明をしてくれ事なきを得た。親切な人はどこにでもいるものだと、有り難かった。
カンボジアに入国してから、しばらく走ると街並みが貧しくなり世界が変わる。
田園の彼方まで果てしなく続く地平線を見ながらカンボジアの大草原を走ってシェムリアップに到着した。

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ゲストハウスに着くと、宿のおじさんが「アンコールの遺跡は観たいか?」と聴いてきた。僕は観たいと答えた。「よし、それならトゥクトゥク(三輪タクシー)を呼んでやる。明日の5時に宿の外にいろ」とおじさん。歩いて行けないのか聴いてみたら、ジャンルの中に遺跡があるから歩いちゃ行けないとのこと。トゥクトゥクに料金がかかることや朝早すぎることで僕は迷った。しかし、おじさんの「アンコール・ワットの朝焼けは素晴らしいぞ」のダメ押しに負けた。
翌朝、宿の外に行くとすでにトゥクトゥクのおじさんは待機していた。事前にネットで調べてみたところ、シェムリアップの中心街からアンコールの遺跡まではおよそ7キロほどで、1日トゥクトゥクをチャーターしても値段は10ドルぐらいだと言う。
しかし、おじさんは平然と「40ドルだよ」と言ってきた。僕は口をあんぐり。ぼり過ぎだろ、おじさん。。おじさんは「アンコール・ワットだけでなく、いくつもの遺跡を回ってやるから、いいだろ?お前にとってもお得だろ?」的なことを言ってきた。早朝とは言え他のトゥクトゥクの姿も見えた。しかし、僕の為にわざわざ早起きして来てくれたことを思うと別のトゥクトゥクで行くことが忍びなかった。僕はこのトゥクトゥクで行くことにした。そう、僕は良い人なのだ。大事なことなので繰り返すと僕は良い人なのだ。念のためにもう一度繰り返すと僕は良い人なんだって。もう一度繰り返すとさすがに嫌われそうなので、もう繰り返さないけど、とにかくこのトゥクトゥクでいくしかないと思った。僕は粘り強く交渉した。片道だけで良いからと言う理由で20ドルになった。納得した訳ではないが空が白んできた。ぼやぼやしていたら、朝焼けを見逃してしまう。アンコール・ワットに着くとおじさんが「もう10ドル出せば、他の遺跡も回ろう」と言ってきた。僕が無理だと言うと「じゃあ、あと5ドル払えば宿まで戻ろう」と言ってきた。今さら別のトゥクトゥクを見つけても、5ドルは取られるだろうと考えて払うことにした。おじさんと別れてアンコール・ワットへ向かう。
アンコール・ワットは700年ほど前に当時のクメール王朝の衰退と同時に放置されジャングルの中で荒廃していた。それをフランスの探検隊が発見し保全修復が始まったのだ。しかし、内戦時には戦場になり、周辺に無数の地雷が埋まっていたらしい。現在は、地雷も撤去されカンボジアの貴重な観光収入の主力になっている。
それもそのはず、実際行ってみて納得した。
遺跡の圧倒的スケールにかつて栄えたクメール文明がどれ程凄かったのか実感した。そして、素晴らしい朝焼けに大満足。
僕は他のアンコールの遺跡も観たくなり、おじさんにあと5ドル払い行ってもらうことにした。


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アンコール・ワットの入り口でおじさんが待っていた。やっぱり他の遺跡も回りたいから5ドル払うと言うと、おじさんは「いやいや、他の遺跡も回るなら、あと20ドル払え」と言ってきた。最初こそ冷静に「なんで朝は10ドルだったのに、2時間して戻ったら倍額なんだよ。おかしいじゃないか」と話していたが、おじさんが何かこっちを小馬鹿にした感じでオオー、ミスター、アイキャント、アンダースタンドと連呼。
キレた。もう冷静になんて言ってられない。このままでは、日本男子のこけんに関わる。気づけば怒鳴っていた。「いいから金返せコノヤロー」を英語、甲州弁、関西弁で言いまくった。おじさんは何言ってんのかわからなかったと思うけど、僕のキレまくる姿で「やばいこいつめっちゃ怒っている」ってことは伝わっていたはずだ。
おじさん「オオー、ミスター落ち着いて」僕「話は終わりだ5ドル返せ」と詰め寄った。二人のやり取りに回りにいたトゥクトゥクの運ちゃん達も5~6人集まってきた。「何だ何だ?、どうしたどうした?」っ感じのことをおじさんに訪ねている。おじさんは「いや、なんかこいつが急にキレ始めて。。」みたいなことをクメール語で説明しているのだろう。僕は朝からのことを説明したかった。そもそもぼったくっているのに、また上乗せしてきたと説明したいけど、英語がとっさにでてこない。僕は「彼は嘘つきだ。詐欺師だ」とバカみたいに連呼した。しばらすしておじさんが「OK、OK10ドルで回ろう」と言ってきた。憮然としながらも僕は「行ってくれと」言った。
その後、アンコール・トムやラピュタのモデルになったベンメリア何かの遺跡を見て回り昼過ぎに宿に戻る。トゥクトゥクのおじさんに何か嫌みの一言でも言ってやろうかと思ったけど、何だかそれも大人げない気がしてやめた。でも、ありがとうと言うのは嫌やだったので、バイとだけ言った。おじさんは何も言わずにさっさと去っていった。
おじさんとのやり取りを思い出すと今でもちょっとムカムカしてしまうのだが、同時に少し笑ってしまう。
おじさんは何も悪意に凝り固まった人間と言うわけでもあるまい。仕事でやっているのだ。それにあんな風に怒ったのは久しぶりだった。仕事をしていた時、よく先輩から「キレたら終わり。ああ、こいつはこう言う奴だと思われて、誰からも信用されなくなるぞ」と言って貰っていた。僕は今でもその通りだとも思うのだか、喜怒哀楽、全部の感情を精一杯表現しなければやっていけない今の状況が面白かった。
思えば旅にでてから理不尽なことや困ったことがたくさんあった。
屋台で飯を頼めば違うものが出てくる。買い物しようとしても伝わらない。道を訪ねてもわからない。そんな時、自分が何もできない子どもに戻ったような気がして地団駄でも踏みたくなる。
そんな旅の理不尽に対して、その都度、身振り手振りで伝えようとしたり、何とか工夫してやってきた。

そして、何をするにもすんなりいかない日常に僕は少し楽しさのようなものを感じてきていた。
さてさて、果たして次はどんな旅の理不尽がやって来るのか。。
心配してもしかたない。来るもんは来るのだ。どうせなら楽しもう。


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タイ編 ・タイランド・ファンタジア

香港から離れることに、少しばかりの寂しさを感じながら、僕はバンコク行きの飛行機に乗り込んだ。出発が遅れたこともあって、到着したのは深夜だった。この旅2度目の空港泊である。
深夜でも意外と空港は賑わっていた。僕は硬い椅子に座って長時間を過ごすはめになり、お尻が痛くなった。危うくピンポイント破壊兵器「JI」になるとこであったが、何とか耐え忍んだ。旅の序盤、こんなところで「JI」にやられている場合ではない。
空港からでて、バンコクの街をあてもなく歩いた。気がつくと朝市に到着していた。新鮮な魚介類や野菜、果物が並び活気に溢れていた。何故かはわからないが、僕はすぐに日本人とばれた。そして、よく日本語で話しかけられた。「スズキ」「タイ」「ニシン」「キムタク」。ちなみにキムタクさんは魚ではない。
夕方、ある方に電話をした。ブーブーと言う音が呼び出し音なのか、不通を知らせる音なのかもよくわからず不安になる。しかし、何度目かの呼び出しで、電話は繋がってくれた。僕は英語でたどたどしく挨拶をした。つたない英語で察してくれたのだろう。「織田さんですか?」と流暢な日本語が帰ってきた。電話の相手はグリアン・サックさんと言う方で、日本を出発する前に、昔から親戚のように我が家と付き合ってくれている、ご近所の吉沢さんから紹介して頂いた方だった。吉沢さんはグリアンさんと同じ職場で働いていた元同僚で、タイに行くならとグリアンさんの連絡先を教えてくれたのだ。
当然、面識は無いのだが、僕のことを事前に伝えてくださってたようで安心した。
「モチットと言う駅まで来れますか?」とグリアンさん。そこで同僚の方々と飲んでいるという。バスと電車を乗り継いで、モチットに到着した。
親父と同年代の吉沢さんのご紹介ということで、もっと年上の方を想像したのだが、グリアンさんは30代半ばぐらいの男性であった。突然、日本からやってきた、海の者とも山の者とも分からぬ僕に対しても、とても丁寧に話しかけて、接してくれた。
グリアンさんの同僚の方々と一緒に楽しく飲み、ご馳走になる。

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お話しだけでも伺えればと思っていたのだが、今晩からしばらく泊めて頂けることになった。本当にありがたい。
御自宅に帰る車中、僕らは改めて自己紹介し合った。グリアンさんはハレー・ダビットソンやトヨタなんかの大企業を渡り歩き、日本やタイやドイツなど世界を股にかけて働いてきていた。現在はBMWで働いる。吉沢さんとは日本のトヨタで働いている時に知り合ったという。
僕も日本での暮らしや、北京、香港の旅のことを話した。バンコクの校外にあるグリアンさんのお宅に到着した。
グリアンさんのお宅はとても静かな住宅街にあり、優しい雰囲気だった。本当に居心地が良かった。こんなに落ち着いて眠れたのは旅の中で初めてだったかもしれない。しかし、少々居心地良すぎたようで、寝すぎた。起きたらグリアンさんと奥様のポムさん、娘のカヨちゃんがすでにリビングにいた。僕は慌てて、ポムさんに挨拶する。タイ語で「お会いできて光栄です」と言った。
ある旅馴れた先輩から簡単な挨拶と「お会いできて光栄です」ぐらい覚えておくと良いよとアドバイスを貰い、僕は世界中の「お会いできて光栄です」をメモしていたのだ。実際、これは有効で、今までも中国語や広東語で「お会いできて光栄です」と言うと「こやつ出来る。。」って感じで受けが良かった。ポムさんも僕の不馴れなタイ語に微笑みながら嬉しそうにしてくれた。
ポムさんが作ってくれた朝食を頂き、僕は娘のカヨちゃんと遊んで過ごした。カヨちゃんは本当に本当にかわいくて、まだ3才なのにグリアンさんが教えているようで、少しばかしの日本語もしゃべれた。「あついですね」「おげんきですかぁ?」「じゅんちゃん!」。。ヤバいかわいすぎる。僕はいまだにカヨちゃんは普通の人間なのか疑問に思っている。なんだか天使とか妖精の仲間と言われた方が納得できそうだった。それぐらいかわいかった。しかし、そんな天使のようなカヨちゃんだが元気盛りらしく、おてんばだ。おもちゃで遊ぶ。本を読んでとせがむ。歌う。走る。グリアンさんたちに抱きつく。僕の膝に乗ってはしゃぐということをランダムにし続けた。僕は子どもを持つことの幸福さと大変さを、グリアンさんたちの1憶分の1ぐらい体験させて貰った。

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しばらくしてグリアンさんが「どこか行きたい場所はありますか?」と聞いてくれた。僕は以前から行ってみたかった水上マーケットに行ってみたいですと告げる。
グリアンさんの車でバ ンコクから離れて水上マーケットに向かう。後部座席の僕とカヨちゃんは一緒に遊んで過ごした。僕はカヨちゃんのまねっこをした。カヨちゃんが「ティース」と言って口を手で引っ張って歯を見せるように広げれば僕も真似する(そして人形の足を口に突っ込まれる)
ほっぺたをつねれば、僕もつねる。口を押さえれば、僕も口を押さえる。つばをドアにぺっと吐き出す。僕も真似してドアにぺっと吐き出す。。訳にはいかず「いけませんよ。お嬢様」とたしなめる爺やの如くカヨちゃんの口を拭いてあげて、ドアの唾もふいた。カヨちゃんはテヘって感じで笑っていた。
そうこうしているうちに水上マーケットにつく。
買い物をして、昼ご飯をご馳走になった。その後、水上マーケットと周りの森を流れる川をカヌーで回る体験コースに参加した。

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川の途中にある小さな椰子から作る砂糖製造所を見学させてもらう。そこで働いている老婆は椰子砂糖汁が入った鍋をグツグツかき混ぜていた。「いつからこの仕事をしているのですか?」と質問すると産まれた時からだと答えた。
産まれた時から。きっと苦労もしたんだろう。それでも、そのきびきびと慣れた動きで働く老婆に僕は、仕事に対する誇りや生きてく力みたいな凄みを感じた。

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僕らはこの後、近くのコテージに泊まる予定だったのだが、コテージの周りがあまりにも何もないので、いったんバンコクに戻ることにした。帰る途中、別の水上マーケットにも寄った。さっきまではしゃいでいて、元気のカタマリのようだったカヨちゃんだったが、突然電池が切れたかのように眠ってしまった。今やポムさんに抱かれて安心しきって、すやすやである。何だか全力で楽しんで全力で休むその姿がおもしろかった。そして少し羨ましかった。

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夜はグリアンさんとナイトマーケットに向かった。ナイトマーケットは雑貨、服、飲食のコーナーに別れていて、全て見ていたら一晩かかりそうなぐらい広かった。
バンドの生演奏をしている野外の飲み屋に入る。そして、グリアンさんからたくさんのお話しを伺うことができた。グリアンさんがまだ学生だった頃、青年の船(だったかな?)に参加して、日本を含む多くの国を訪れて国際交流をしたこと。そこでした様々な経験。働き始めて転職を決めた理由も教えてくれた。「日本ではトヨタみたいな会社に入ったらゴールでしょ?でも僕は自分の仕事に納得できなかった。転職をして良かったと今では思ってますよ」とグリアンさん。「そのチャレンジ精神はどこからやってくるんですか?」と聴いてみた。「家族ですね。家族のサポートがあるから挑戦できる」
そして僕には「様々な経験をしてタイを好きになって貰いたい」と言ってくれた。そして《人生を楽しむ勇気を持って》とも。人生を楽しむ勇気。。人生を本気で楽しむには楽なことだけではない、時には困難に挑戦する勇気だって必要なのだろう。グリアンさんのように。
続けてグリアンさんはこう言った「タイ人は日本人より少しだけ人生を楽しむコツを知ってます。サバイ(楽しい)です」
そこから何件かの店をはしごした。
次の店で僕はタイランド・ファンタジアというカクテルを注文した。グリアンさんは楽しそうにサバイサバイと言っていた。何となく僕もサバイ(楽しむ)を言葉ではなく体験として理解したような気がした。そう、サバイサバイなのだ。

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僕は思った。グリアンさんのような人を本当の意味で豊な人と言うのだろう。愛すべき家族を持っていて、誇れる仕事があり、人生を楽しんでいる。そして、接する全ての人をふわっと幸せにする。現在の僕はどんなに旅人だ何だとカッコつけたところで、世間からみたら横文字で表現できる無職者であり、その事に少しばかり引け目を感じていた。しかし、グリアンさんと接する時はそんな引け目なんて感じず自然体で過ごすことができた。
僕もいずれ、与えられてばかりではなく与える側に、守られてるだけでなく、守る側になりたいと思った。
グリアンさんのような男になりたいと思ったのだ。
翌日、ポムさんとカヨちゃんにお別れを告げる。
タイでは子どもの頭は神聖なものとされていて、むやみに撫でる訳にはいかず、僕は頭を撫でたい気持ちをぐっと押さえて、高い高いしてカヨちゃんと別れた。ポムさんにも美味しい食事のお礼を言った。「またタイに遊びに来なさいな」と言ってもらえた。
ついでにお土産物として、昨日の水上マーケットで買ったTシャツまで頂いてしまった。

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昼過ぎ、グリアンさんとウィークエンドマーケットに向かう。ここでタイ初日の飲み会で一緒だったグリアンさんの同僚のドイツ人のジャンさんと合流。彼はタイに赴任してきたばかりらしく、グリアンさんが終末に観光地なんかを案内しているらしい。本当に面倒見が良い方なのだ。迷路のようなウィークエンドマーケットを見て回った後、僕らはワット・ポーに行った。何度見ても巨大な涅槃像は迫力があった。グリアンさんにカオサン通りに送ってもらい。僕らはそこで別れた。グリアンさんのお陰で、さまざまな経験ができ、タイが好きになった。僕は深々と頭をさげた。

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カオサン通りバックパッカーの聖地として有名であったが、現在はその姿を変えつつあるようだ。世界的に有名になり過ぎて、本来の安宿街からクラブやパブが立ち並ぶナイトスポットに姿を変えていたのだ。木造の古いゲストハウスは一斉に取り壊され、再開発され巨大なショッピングモールを建てる工事も進んでいる。もはや安宿街というくくりが当てはまらなくなっている。
実際、カオサンから少し外れた通りの方が宿の値段は安かった。やって来る人々も僕のようなバックパッカーは少なく、形だけになってしまった聖地を少しだけ残念に思った。変わりゆく街。どうしようもない流れというのがあるようだ。
そんなカオサンで僕は、移動用のバッグを買おうと思った。今まで使っていたバッグは気に入っていたもののチャックが壊れてしまい、いつ物が落ちてもおかしくなかった。なんとか騙し騙し使っていたが、いい加減買おうと思ったのだ。さっそくカオサンにあるバッグを取り扱っている店に入る。なかなか使い勝手の良さそうなNORTH FACEのバッグを気に入る。恐らくフェイク品だろうが店員のおばちゃんに確認したら、自信満々で本物だと言う。。いや絶対偽物だろ。。
僕はなかなか手強そうなおばちゃんと交渉に入った。
バッグの値段は1000バーツ。さていくら下げれるか。。
僕「このバッグいくらだい?」おばちゃん「1000バーツだよ」僕「それは観光客向けの値段だろ?もっと安くしてよ」おばちゃん「なかなか賢いね。900バーツにするよ」僕は話しにならないって感じで首を振り店を出ようとする。おばちゃん「待って!じゃあいくらならいいんだい?」僕「500バーツ」おばちゃん「無理無理、850バーツ」僕「500バーツ」おばちゃん「800バーツ」僕「500バーツ」おばちゃん「こっちは値下げしてんだから、あんたも少しは妥協しなさいよ。さっきからずっと500バーツじゃない」僕「550バーツ」おばちゃん「750バーツ」僕「よし買った!」
少しやり過ぎたかなとも思ったけど、僕はおばちゃんにお礼を言って店を出た。僕は勝負に勝った余韻でルンルンだった。ちなみにすぐ近くの店で同じバッグが600バーツで売っていたことは勝負とは関係ないし、勝負に勝って試合に負けたことにはならないのだ。それに、こんなことも含めてきっとサバイサバイなのだ(いや、これは全然違うか。。笑) 



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マカオ編・斬新な髪型の彼女について僕が思うこと

香港のスターフェリーを利用して、マカオに行くことにした。前日、ステフからのメールを待って1日中ゲストハウスにいた僕は、このままでは引きこもりになると思い、鬱々とした気分を吹き飛ばすため、前々から行ってみたかったマカオに行くことを決意したのだ。
マカオは香港の西南西60キロに位置し、フェリーで1時間ほどでいけた。料金は片道3000円ほど、貧乏旅行者にはかなりの痛手だ。
マカオの魅力と言えば、世界遺産とカジノ。
毎年埋め立てで拡大しているらしいが、本来のマカオの面積は僅かで、世田谷区の半分程だと言う。そのなかで、これでもかと言うほどたくさんの世界遺産が詰め込められている。と言うのもマカオの歴史は、ポルトガル船が中国と貿易するための寄港地として始まり、その後、極東におけるキリスト教の拠点として多くの宣教師が訪れるようになったからだ。
狭い領地に教会が沢山建ち並んだため、今でも教会の密集度は世界一。元々ある寺や、要塞なんかも合わせて、数えるのが大変なほど多くの世界遺産を持つことになったのだ。
僕は日のあるうちは世界遺産を回り、夜になったらカジノに行くことにした。
マカオタワーに行き、続いてマカオで最も古い寺院である女馬閣廟に行った。ここはマカオの名前の由来になった寺院だった。16世紀、ポルトガル人が最初に上陸したときにこの土地の名前を訪ねたところ、地元の人が誤解して「アマガオ」と寺院の名前を教え、それが簡略化されポルトガル語でマカオとなったのだ。

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そこまでは観光も順調だったのだか、次に向かったセナド広場と聖ポール天主堂跡で問題発生。バスで向かったのだが、気づけば終点のバス停に着いてしまっていた。慌て逆方向のバス停に戻る。そう言えばセナド広場に行くからと言って、バス停の名前がセナド広場とは限らないではないかと頭を掻く。同じ轍を踏まないように、隣の男性に聴いてみる「セナド広場と聖ポール天主堂跡に行くには何て言うバス停で降りれば良いのですか?」彼は「漢字でもいい?新馬路だよ」と教えてくれた。それをきっかけに彼と話始めた。彼はキィンサンだと名乗った。発音が難しく、僕は頭の中で金さんと変換する。彼の両親が日本に来たことがあるらしく、「とっても良いところだね」と誉めてくれた。僕もほとんど知らないくせにマカオは素晴らしい所だと誉め讃えた。「あなたはカジノに行きますか?」と聴いたら、金さんは「カジノに行くのは観光客だけだよ」と笑ってで教えてくれた。バス停に着きお別れを言うと、僕も家が近くだから、聖ポール天主堂跡まで案内するよと言ってくれた。セナド広場を横切り聖ポール天主堂跡へたどり着いた。マカオの観光ガイドブックの表紙になるだけあって、かなり立派だ。ちなみにここには徳川家康レリーフもあった。江戸時代キリスト教を邪教として迫害した家康は、魔物として描かれてた。日本では狸呼ばわりされ、マカオでは魔物扱い。。家康さん、どんまい。金さんと記念撮影したあと、彼はじゃあねといって来た道を引き返していった。どうやら彼はわざわざ僕が迷わないようにここまで来てくれたらしい。家が近いと言うのも、もしかするとウソかも。マカオの地で現代の聖人を観た。ありがとう金さん!


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夜になりステフに教えて貰ったVenetian Hotelのカジノに向かった。
カジノは僕がこの貧乏旅行で唯一許した贅沢でもあった。賭ける為の資金はきっかり100米国ドル、約12000円だ。ちなみに手元のガイドブックには、「カジノは5万~10万ほどあれば充分楽しめます」となっていた。どうも土俵にも立てていないらしい。
当然、最初の資金が潤沢なほど賭け事は有利であり、僕は何だか、戦車やマシンガンの玉が飛び交っている現代の戦場で、自分だけ竹槍で挑むような一抹の心細さを感じた。
カジノに入ってまず、その広さに驚いた。
体育館5~6個分だろうか。とにかく広い。僕は現金をチップに変えた。100ドルは8枚のチップに変わった。チップには100香港ドルと刻印されている。つまり1枚1500円ほどと言うことだ。
ホールを一通り見終わったあと、僕はお目当ての台へ移動した。「大少(ダイスウ)」。
バックパッカーのバイブル「深夜特急」でもお馴染みなので、賭け事に興味ない人でも知っているかも知れない。大小は日本の丁半サイコロに似ており、3つのサイコロを使い出目を当てるゲームだ。
4~10までを小、11~17までを大。単純に大か小に賭けるやり方、数字の合計を当てるやり方、出る数字を1つ、2つ、3つあてるやり方。出る確率が低い賭け方ほど、当然倍率は上がる。ちなみに単純な大小賭けだと、1WIN1 つまり1枚賭けて勝利をすれば2枚になり、負ければ0枚になる。わかりやすい。僕はその分かりやすさにひかれた。
また、ゾロ目が出たら親の総取りであり、単純に大小賭けしたとしても勝率50%とはいかず、長引けば長引くだけ不利になるようだった。
深夜特急」の中で、作者の沢木耕太郎は、確信は持てないとしながらも2つの攻略法を見つけ出す。1つは大小の目は実はカジノ側が操作しており、例えば大に賭けが集中した時、小を出すと言うもの。つまりカジノ側の思考の逆をつけば勝てる考えだ。もうひとつは音。大が出る音、小が出る音が微妙に違うらしい。結果から言うとこの攻略法は何の役にも立たなかった。
まず、カジノ側が出目を操作してるとしても、当然ながらそんなにあからさまに目を操作することはなく、相手の思考を読むことは不可能だった。続いて音。僕は暫く音に集中した。3つのサイコロに料理を運ぶ時に使うような蓋を被さる。次に音がなる「ダン・ダン・ダン・ダン」と。なんとなく大の方が一定の音であるのに対して、小は最後のダンだけ半音高い気がした。僕はその仮説を証明するため。暫く台を見続け、頭の中で賭けた。すると3回連続大・小・大と当てることができた。
僕は攻略法と興奮した。実際にかけてみることにした。「ダン・ダン・ダン・ダン」完全に大。僕は大小のミニマムベットである3枚を大に賭けた。結果は。。小
ものの数秒で4500円失った。
結局、わかりやすい攻略法などないのだ。大体マンガでも「このゲームには攻略法がある」と序盤で言えば破られるし、「このゲームは俺が予想する最悪の流れに向かっているかもしれない」と言えばその通りになる。僕は一旦、大小の台を離れてバカラ、スロット、ポーカー何かを観た後、ルーレットの台にたどり着き、ちまちま、ちまちま賭けた。結果2枚チップを失った。僕は頭を冷やすためにトイレに向かう。鏡で自分の顔を観ながら「何か違え」と思った。金もないのにカジノに来ている時点でアホなのだ。何を懸命ぶって攻略法だの、ちまちま賭けなどしてるのだ。失うか得るか、そんだけだろ。大体ちまちましている奴にチャンスの女神が微笑むとも思えなかった。僕は顔を洗い。髪を後ろに縛り直し、大小の台に戻った。持っている3枚のチップをすべて大に賭けた。来るなら来い。持ってくなら持ってけ。結果は。。。
「大」!良し!
僕は続けて6枚全てを大に賭けた。結果は。。。。
「大」!良し!良し!
僕は12枚全てを大に賭けようとしたけど、何かが一瞬躊躇させた。僕は賭けなかったが、結果は「大」
う~ん。賭けていれば。。一度台から離れる。もう一度賭けをするか、帰るか。。僕はホールを回って考え続けた。「僅かだけど、プラスだしここいらで帰ろう」という声と「今帰ったらせいぜいフェリー代位にしかならない。もう一勝負しよう」という声が聴こえた。どちらも正しく聴こえた。散々迷って、僕はカジノから出ることにした。一度は尽きかけた資金がプラスになっている。竹槍一本で生きて帰れただけでも上出来ではないかと思えた。それでも、もう一勝負という考えはずっとあり、必ずしも清々しい気持ちでないままカジノを後にした。8枚のチップが12枚になり。6000円の勝利。我ながらスケールが小さくて笑える。それでも敗けじゃない。チャンスの女神には後ろ髪がないと言う。通り過ぎてからでは遅いと言うことだ。僕の目の前に有ったのはチャンスだったのか、破滅だったのか。。
とにかく斬新な髪型をした彼女は、どこかにいってしまった。もし、また賭けなければいけない場面が来た時、僕はどうするだろう。前髪を掴むか、見送るか。何だかこのカジノでの一連の出来事を思い返した時、大2連続でた時は、お金なんてどうでも良かった気がする。欲望から一歩下がった時、案外運は向いてくるのかもしれない。
「斬新な髪型をした彼女に振り替えって貰うには、欲望という手で触れてはならい。」僕がカジノから学んだ教訓らしきものだった。
今ではそんな風に思う。

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・香港慕情

サムと脱力系のお別れをした後、僕は蘭桂坊に向かった。
ここは前日にヘンリーに教えてもらった場所なのだが、若者がたくさん集まるオシャレな飲み屋街とのことだった。特に金曜日の蘭桂坊はクールでクレイジーだと言う。今日は金曜日だった。
旅を始めてからの僕の生活リズムは、8時には宿に戻り、12時前に就寝すると言うサラリーマン時代とさして変わらないものになっていた。
少々、健全過ぎるし、真面目過ぎた。この旅は25年かけて作りあげてきた、織田潤一と言う枠と言うか殻と言うか檻と言うか、とにかくそう言った物をぶっ壊す為の旅でもあるはずだった。
クールでクレイジー結構じゃないか!
僕はナイトライフを楽しむことにした。蘭桂坊に行き、女の子に声を掛けようと思った。そもそもナンパの経験だってほとんどないし、ましてや海外で外国人の女性相手など皆無のことだった。
駅から蘭桂坊に向かう道筋、僕の頭の中では、ドリカムの「決戦は金曜日」が流れていた。
蘭桂坊には、たくさんのバーやクラブが溢れており、僕はどこに入ろうかと、うろうろ歩き回った。すると、ちょっとした人だかりができた場所があった。近づいてみると有名ブランドの新作ドレスの発表をやっているらしかった。僕は何となくそれをカメラに納めていた。


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僕たちがお互いの存在に気付いたのは、ほぼ同時だった。「あ、あなたは!」
彼はアベニュー・オブ・スターで僕とブルース・リーとの2ショットを撮ってくれた人の良さそうなお兄さんだった。「こんな所でまた会うなんて、奇遇だね」と僕。「本当に」と彼は笑った。
僕らは互いに自己紹介をした。彼は韓国人のユンと言って、IT関連の仕事をしており、僕と同い年の男だった。夏休みを利用して香港に来ていて、明日、帰国予定らしい。
彼は日本のアニメやドラマが好きで、それらを観ながら独学で日本語を学び、かなりマスターしていた。日本に旅行した経験もあるらしい。僕らは急速に仲良くなり、一緒にちょっとシックなバーに入った。何杯か飲んだ後、僕はユンに「女の子に声を掛けようと思うんだ」と必要もないのに高らかに宣言した。彼はのけ反り「今からかい?」と驚いていた。「そうだよ。だって明日帰っちゃうんだろう?旅の恥はかき捨てと言うじゃない」と僕。「でも、僕はなんぱの経験もないし。。」と気弱なユン。「大丈夫!まかせて」と根拠もないくせに僕は言いきった。さっそく声を掛けようと店内を見渡す。
カウンターに座っている2人の女性に目をやった。後ろ姿なので良くわからなかったが、横顔はなかなか美人そうである。僕は彼女たちに声を掛けた。振り向いた彼女達を観て「ありゃ?」と思った。彼女達は若いねと表現するより、幼いねと表現したほうが良さそうに見えた。僕らのテーブルにやってきた彼女たちに年齢を確認した所、18歳と15歳で二人とも同じ高校の女子高生だと言う。
「ありゃ、ありゃ」
すでに何杯か飲んでるらしく、彼女たちの顔は赤かった。
一杯奢るよと僕は言った。彼女たちはカクテルのおかわりを頼もうとしたが、僕らは成りませぬとノンアルコールを注文させた。
香港は天国じゃないし、彼女たちだって天使じゃない。女子高生だって口があればアルコールぐらい飲めるし、ちょっと背伸びして外に飲みに行きたいと言う彼女達の気持ちも理解できた。僕にしたところで、高校生の頃、清廉潔白な学生だったかと言ったら、全くそんなことはない。
でも、自分がそうだったからと言って、大人が子供にお酒を薦めていい理由にはならない。
僕はくどくど説教するなんて鬱陶しいことはしなかったけど、彼女たちもそれ以上アルコールを注文したいとはいわなかった。結構楽しく話して僕らはそこで解散した。
歩いて帰れる距離に住んでると彼女たちは主張したが、ふらつく足元を見て、これでタクシーで帰ってと100ドルを渡した。彼女たちはサンキューと言って、笑顔で帰っていった。

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次の店をユンと一緒に探す。
今度の店はさっきとうって変わって賑やかな店だった。僕は基本的にクラブと言うのが嫌いだった。うるさくて、暗くて、退屈と言う以上の感想を持てなかった。しかし、その店は生バンドで演奏しており、ビートルズや、BONJOVI、ゴールドプレイなんかのポピュラーなロックを演奏してくれたお陰で、自然にのることができた。

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しばらく演奏を楽しみながら飲んだ後、今度はOL風の女性2人組に話しかけてみた。
「俺が日本人で、あっちに座ってる彼が韓国人、一緒に飲まない?」と言うと、髪の長い彼女は「あ、私日本語話せるよ」と一言。英語での口説き文句を頭に浮かべていたので、肩透かしを食らった。
なんにせよ安心した。僕らは彼女たちの許可を貰い、席を移動する。
日本語を話せる彼女は、ステフというマカオ人だった。(Facebookで繋がっているので、一応仮名にしとく)
彼女は、神戸の大学院を卒業しており、現在は日本、香港、マカオを拠点に小さな貿易会社を経営している女社長だった。今は神戸在住らしい。彼女は僕なんか到底及ばないぐらいの旅行好きで、世界中、いろいろな所に旅をしていた。僕らは行ったことのあるインドやフィリピンの話で盛り上がった。
僕は昔から、賢くて、活動的な女性が好きだった。そう彼女は僕のタイプだったのだ。賢くて、活動的でおまけに美人。僕はいつしか彼女を冗談半分ながら口説いていた。爆音が轟く店内。ステフが僕の耳元で叫ぶように聴いてきた「なんで香港に来たの?」僕は彼女の耳元で「君に会いに来た!」と言うと彼女は嬉しそうに僕の右腕をバシバシ叩いた。ちょっと寒いセリフかも知れないけど、その時の僕は本気でそう思った。僕ら4人は全員平成元年産まれで、何度も「平成元年!」と言って乾杯した。
その後、ステフの友人だと言う男女4、5人が合流した。ドイツ、ノルウェー、香港、アメリカと見事に国籍がバラバラで、僕らの席は一気に国際色豊かで、賑やかなものになった。アメリカ人のヴィクターと言う男が愉快で、音楽に合わせて踊り、女性人に紙ナプキンで作った薔薇を膝まづいて渡していた。僕らはヴィクターが無差別にする投げキスをかわすと言う遊びを飽きもせずにずっとやっていた。僕もユンもステフも、みんな良く笑っていた。
楽しいなぁと思った。なんだっけこの感じと思うと、それは大学生の頃、気心知れた友人と一緒に鍋を囲んで、朝まで飲んでいる時の雰囲気に似ていた。たった3年働いただけで、青春という言葉が何を指すのか僕は忘れていたようだ。人生で二度も青春があるなんて、僕は幸せ者だと思った。

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店をみんなで出てから、僕は彼女に「この後、二人で飲み直そう」と誘った。彼女は明日、朝早いんだと言った。どうやらここにいるメンバーで船を貸しきって、パーティーをするとのことだった。僕が残念に思っていると、彼女が「明日も香港にいるんでしょ?またここで飲みましょうよ」と提案してくれた。僕の顔には香港の夜景にも負けない100万ドルの笑顔が張り付いていたはずだ。
僕らは明日の再開を約束して別れた。僕は考えた。このまま彼女のことを、香港で知り合ったちょっと感じの良い娘という淡い思い出にするのか、本気で彼女に近づくか。。後者を選んだ場合、僕の旅は終わるのか?それでも構わない気がした。
それにしても多くの、本当に多くの偶然が重なっている気がした。もしサムに会わなければヘンリーとも会えず、蘭桂坊に来ることもなかった。そうなればユンとも再開しなかったし、ステフと知り合うこともなかった。ぷよぷよだったら勝利を確信するぐらいの偶然連鎖が起こっていた。偶然がいくら重なったって、それだってやっぱりただの偶然だよ、と笑われるかもしれない。けど僕はその繋がりの偶然に意味を見いだした。きっとそれが最も大切なことなんだと思う。
終電をとっくに逃していた僕とユンは、タクシーを拾うことにした。僕らの宿は共にコーズウェイベイの駅の近くだった。偶然。ほらやっぱり繋がっていると嬉しくなる。
朝方、僕は明日を楽しみにして眠りについた。
しかし、人生楽しいことや、幸せなことだけで終わってくれるほど甘くはないらしい。
ステフからの連絡を今か今かと待っていたけど、彼女からのメールはこなかった。夕方を過ぎ、僕の方から連絡してみることにした。「船から戻ってきた?今夜も飲みに行こう!」しかし、彼女からの連絡はなかった。僕は苦笑した。どうやらフラれる、フラれない以前に相手にされてなかったらしい。
その後は、女々しくメールをまたするなんてことはしなかった。
香港から旅立つ数日前、ステフから連絡がきた。「ごめん。Facebook観てなかった」現在はマカオにいると言う。一瞬「君に会いにマカオに行っていい?」とメールをしようとして止めた。彼女もそれを望んでいないような気がした。僕は「日本に帰ったら連絡するから、いつか神戸で合おう」とメールした。
彼女とはFacebookで繋がっているので、もしこのブログを観ていたら、下手な告白みたいになってしまい少々気まずいが、まぁ良いか。。
ステフに会えて良かったとだけ伝えたい。
香港を舞台にした昔のハリウッド映画で「慕情」というのがある。ハッピーエンドで終わらないラブストーリーなんて大嫌いだと僕は思った。
男はつらいよで言っていた寅さんのセリフを思い出す。
浪花節だねぇ人生は」
浪花節だねぇ。。