Welcome Aboard -旅するために旅をする

現在、絶賛無職中の僕が、世界中を旅するブログです。

・ シンフォニー・オブ・ライツ

ブルース・リーに、目線を相手から外さない彼式のお辞儀をして別れた後、僕はビクトリアピークに向かった。
そこは、小高い山の上に展望台とお土産屋、レストランなんかがある複合施設だった。香港の100万ドルの夜景を堪能できるということで是非、来てみたかったのだ。
しかし、人気スポットだけあって道のりは険しかった。ビクトリアピークに向かう専用列車に乗るまでに、1時間半ぐらいかかった。一緒に並んでいたスウェーデンのカップルとクレイジーだとぼやきあった。
ようやくたどり着いたビクトリアピーク、日はすっかり暮れ、全てが光で出来ているような素晴らしい夜景を観ることができた。
もうひとつ、僕はここで楽しみにしていたことがあった。

「シンフォニー・オブ・ライツ」
香港政府観光局が、毎晩8時から13分間開催しているナイトイベントだった。ビクトリアハーバーの夜景に、香港島、九龍島の主要な高層ビルから放たれる色とりどりのレーザーが加わり、世界中から訪れる観光客を魅了し続けてる。らしい。ちなみに、このシンフォニー・オブ・ライツは、ギネス世界記録でも「世界最大の永続的な光と音のショー」として認定されている。
僕は有料の展望台には登らず、ビルのベランダから観ることにした。すでに20人近い人がいたが、果たしてこの方角で観れるのか自信がなかった。僕は隣にいた白人の青年に訪ねてみた。
「この方角でシンフォニー・オブ・ライツ観れるかな?」
彼は「良くわからないけど、たくさん人がいるし、間違えないんじゃないかな」と言った。ショーが始まるまで30分以上あった。僕らはぽつりぽつりと言葉を交わしていった。
彼はイギリス人のサムと言って、現在、韓国の小学校で英語を教えている先生だった。香港に来た理由は、夏休みを利用して、香港に住んでいる友人に会いに来たという。
僕が世界中を旅行していて、イギリスにも行くよと言ったら、おすすめの観光地を教えてくれた。サムの彼女は現在、日本の大阪に住んでいるらしく、来月会いに行く予定だと言う。僕はお返しに、大阪のおすすめスポットを紹介した。
シンフォニー・オブ・ライツは僕が期待し過ぎたのか、正直微妙だった。パチンコの宣伝用ライトを少々大げさにしたぐらいで、僕は香港政府観光局もギネス協会も大したことないなと思った。しかし、どんなにショボくても僕とサムを仲良くさせてくれただけで、僕にとって計り知れない価値があった。

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ちなみに、後日、シンフォニー・オブ・ライツをベストビューポイントであるアベニュー・オブ・スターから観たのだか、ショーの間はレーザーに合わせて、テンポの良いバックミュージックが流れて、「いかれたメンバーを紹介するぜ!まずはエンパイアステートビル!」光りドン!てな具合にナレーションも加わり、本当に本当に良かった。疑ってごめんよ。香港政府観光局。あとギネス。

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シンフォニー・オブ・ライツを見終わったあと僕とサムは、一緒に夕御飯を食べることにした。サムは「明日、何してる?」と聴いてきた。「何してるかな?香港の観光地をいくつか回ろうと思ってる」と僕が言うと、
「じゃあ、一緒に回ろう!夜は友人と食事に行くから君も来たらいい」とサム。
突然のお誘いで嬉しかったが、少々心配にもなる「嬉しいけど、突然、知らないやつが参加して友達怒らない?」彼の答えは「ノープロブレムだ」とのこと。僕は参加してみることにした。
次の日、僕らはサムの友人と合流するまで、香港歴史博物館、香港科学博物館、香港スペースミュージアムと次々博物館をはしごした。旧石器時代の人々の暮らしに触れ、最新科学を体験し、ついには宇宙に飛び出し、自分が今、何をやってるのか良くわからなくなってきた。
夕食から合流したサムの友人のヘンリーは、良心が服着て歩いているような、優しい香港男子だった。香港の不動産関係で働いているらしく、サムとは香港からイギリスに留学していた時に知り合ったという。突然やってきた僕を笑顔で受け入れ、僕が「香港の観光地でおすすめあるかい?」と聴いたら、紙にたくさん書いてくれ、どこそこはこんな所で。。と丁寧に説明してくれた。
ヘンリーは、会計は自分が払うと言い。僕らが強硬に払うと主張すると「君たちは100ドルでいい」と半分以上は支払ってくれた。散々飲み食いしたあとで申し訳なかったが、ここは好意に甘えることにした。
ヘンリーありがとう!

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次の日もサムからメールが来た。サム「今日は何してる?」僕「ヘンリーに教えてもらったランタオ島に行こうと思う。一緒に行く?」サム「行く」僕「ん」
ランタオ島は自然に囲まれた美しい街の景観が有名で、仏教の歴史的建築の数々などがあり、信仰の島としての側面も持っていた。
ランタオ島に到着し、僕らは世界最大の野外大仏のある昴坪大仏を目指して、ゴンビン360というケーブルカーに乗ることにした。
例のごとく長時間待たされたのだが、サムと一緒だと、ちっとも退屈しなかった。

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ケーブルカーを登りきり、大仏を見上げながら僕は、「仏教徒は大仏に手を合わせて、健康や幸福を祈るんだ」と説明する。サムは「なんで大きくなくちゃいけないの?」と聴いてきた。僕が「お、大きい方がご利益ありそうだろ?」と言うと分かったような分かんないような顔をした。何で大きくなくちゃいけないんだろう?

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帰り道トイレに寄った。僕はトイレの前で少々考え込んでしまった。と言うのも、ランタオ島に向かう地下鉄の車中、サムはおじいちゃんと子連れのお母さんに自然に、本当に自然に席を譲っていた。さすがの英国紳士である。話しに夢中で、周りを見えていなかった自分が恥ずかしかった。
トイレの前はジェントルマンとレディースに別れていた。ある意味重い問いかけかも知れない。お前は紳士か?と問われた時、僕はこれまでの自分の行為を振り返って、自信を持って「そうだ紳士だ」と言えそうになかった。かと言ってレディースに入る訳にもいかず、いつもより少しだけこそこそしながらジェントルマンに入る。女性の方はご存じないかも知れないが、日本の男性用トイレには「一歩前に!」と言う張り紙が貼ってあることが多い。もしかしたら、男であろうが、女であろうが、サムのように一歩前に踏み出して人と積極的に関わろうとする姿勢のことをジェントルと言うのかもしれない。。そう「一歩前に!」
ランタオ島から戻り、僕らは駅のホームでお別れすることになった。サムは明日、韓国に戻る予定だった。ほとんど3日間一緒に過ごしたのだ、最後にバグでもしてやろうと思っていたが、サムはいつも通り「じゃあ、また」とさっぱりしている。僕も「ありがとう。写真送るよ。またな」と挨拶しただけだった。
サムが電車に乗り込み去っていく。サムという男と数日間過ごし分かったことがある。前日ヘンリーと別れたあと、「ヘンリーいい奴だね」と僕が言うと、サムは「ああ、本当にいい奴なんだ」と少し照れ臭そうに話していた。
彼はシャイなのだ。
もしかしたら、サムは僕との別れも照れていたのかも知れない。「もう、俺とお前は友達なんだから、大げさな感謝の言葉も、大層な別れの挨拶もいらないだろ?また会うだろうし。。」と
勝手な想像だけど、僕はそんな風に受け取った。
そう、僕らはまた会うだろう。。いつか、きっと。
そういえば、ランタオ島から戻る電車賃をサムに貸していたのを思い出す。
今度会った時に、気軽にこう言ってやればいい。
「サム、25ドル(約390円)返せ。コノヤロー!」

香港編 ・Don't think. Feel !

北京から香港へ向かう飛行機の機内。僕は指定された席にたどり着いた。隣の人物を観て、「あ、コバヤシ君」と思わず声に出しそうになる。
隣の男性は、僕の地元の友人、推定体重90キロオーバーのコバヤシ君にそっくりだったのだ。最近会ってなかったけど、元気してたか?コバ。と声を掛ける訳にもいかず、とりあえず座ろうと思った。
しかし、彼のたくましい太ももは僕の席に領土侵攻しており、このまま座れば僕が半けつ状態になることは避けられそうになかった。彼に責任が帰する話しではないが、何とかしなくては。。
僕は思わずCAのお姉さんを観た。すると何かを感じたCAさんが、こっちにやって来て「コバヤシ様、隣のお客様が半けつ状態になられて在られます。もう少し詰めて頂けますか?」などと言ってくれるはずもなく、仕方なく僕は、おそるおそる座ってみることにした。普通に座ると少しキツいが、コバヤシ君の方に体重を預けるように座ると意外と快適だった。
コバヤシ君も慣れているらしく、体重を掛けられても特に何も言ってこなかった。
香港までの4時間、体型だけコバヤシ君との一方的な連帯感。
そして、窓から見える香港のオレンジ色した夜景。悪くない時間だった。深夜に到着したので、その日は空港に泊まった。

翌朝、僕は2階建てバスに揺られて宿に向かった。
車窓から見える高いビル郡、九龍島と香港島を結ぶフェリー、そして抜けるような青い空。そんなものを眺めていて、ようやく自分が香港に到着したのだと実感し始めた。
香港は都会の中の都会であった。北京では大きなビルに囲まれていても、すこし移動するだけで、一昔前の中国を見つけることができたが、香港はどこまで行ってもピカピカとした真新しい人工物で出来ていて、香港というひとつの大都市を形成していた。
ほとんど寝ていないにも関わらず、新しい街に来た高揚感があり、僕は香港の街をほっつき歩くことにした。
とりあえず、真っ先にむかったのが九龍のメインストリートのネイザンロード。香港を訪れた人なら一度は耳にしたことがあるはずだ。100万ドルの夜景と並んで、この通り沿いに突き出た看板のイルミネーションは、香港を代表する風景のひとつになっている。

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気づけば夜になっていた。きらびやかなイルミネーションがぎっしり並びだし、煌々と照らされたメインストリートには、人が溢れかえってきていた。買い物のメッカでもあり、大きなショッピングモールや最新の流行を求めるショップ、ナイトマーケットの露店など、大小様々な店があった。ただただ眺めているだけでも、楽しかった。
次の日、僕はアベニュー・オブ・スターに行った。
ここは海沿いにあるストリートなのだが、「アジアのハリウッド」と称され、世界中に熱狂的ファンが多い香港映画の一番の名所でもあった。
無声映画時代から現代まで、香港映画の発展の歴史を記した記念碑が並び、歩いてるだけで、香港映画通になれた。
地面には歴代香港映画のスター達の手形とサインが納められていた。

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数あるみどころの中でも、美しい景色と一緒に写真に収めたいNo.1は、なんと言ってもブルース・リーの像だろう。
何を隠そう僕は、子供の頃からブルース・リーの大ファンだったのだ。僕は心の中で「あれから色々あったけど、少しは成長できたかな。。ブルース」と語りかけた。彼はやっぱり「Don't think.Feel」と言ってくれてる気がした。
ブルース・リーと言えば大学時代の先輩のT部さんを思い出した。
僕は海外での災害援助から、過疎地の地域起こしまで何でもこいのボランティア団体に所属していたのだか、そこでT部さんと知りあった。
当時、僕たち一年生はボランティア先で披露する、よさこいの練習をしていた。そこにやって来たT部さんは、何故か筋トレを始め、「いいか、ボクシングのパンチとジークンドーの掌ていの違いを教えてやる」といい始め、僕らに懇切丁寧に説明し、教えてくれた。よさこいは教えてくれなかった。
T部さんはなかなか面白い人で、とんでもなくキレる頭脳の持ち主にも関わらず、男子中学生の放課後ノリをいつも持ってる希有な男だった。僕はT部さんのことが大好きだった。また機会があればT部さんとの思い出も書きたいと思う。
帰る前にブルース・リーと、2ショットの記念撮影をしようと思った。
近くにいた人の良さそうな男性に話しかける。義務とまでは言わないが、礼儀としてやらねばと、(なんの礼儀か知らないが)ブルース・リーと同じポーズをして、顔マネをした。お兄さんに笑われた。僕も笑った。
なんだか香港と仲良くできる気がしてきた。
理由はない。
Don't think. Feel !なのだ


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・毛沢東の肖像画

ショウと別れたその日、僕は恭子さんと再会した。
恭子さんは、僕の母と同年代の女性で、とてもパワフルな人だった。僕は個人的に彼女のことをゴッド恭子とかマザー恭子とか呼んでいた。
初めて会ったのは僕らが大学2年生のタイ研修の時だった。
タイ研修は僕が所属していた赤石ゼミとうちの大学が社会人向けに企画していたアジア塾との合同で企画されていた。研修から帰ってきても僕らの交流は続き、恭子さんは折を見て赤石ゼミの集まりに顔を出してくれ、僕らも恭子さんがやっている社交ダンスを見に行ったりした。社会人になってからは大阪に遊びに来てくれたこともあった。
恭子さんは、僕が同じ赤石ゼミで友人の李 嘉王其(リ・カキ)に会いに行くタイミングで、僕とカキに会うために来てくれたのだ。
恭子さんと空港で合流した後で、カキに会いに行った。
カキは僕らのお姉さん的存在で、活動的であり、僕が箸にも棒にも引っ掛からなかった卒論の賞を取るぐらい優秀な人でもあった。そして、優秀だけど面倒見が良く、気さくな人柄で僕らはみんなカキのことが大好きだった。僕らは久しぶりの再会を喜びあった。夕食はカキが奢ってくれた。その後で宿泊するホテルに移動した。外観が見えてきた時点で嫌な予感がしていたのだか、到着して確信に変わった。そこは高級の上に超が着くほどのホテルだったのだ。これからホテルの一室を3人でシェアする予定だったのだが、これは3で割っても1泊100元や200元(2000円、4000円)じゃきかないぞと青ざめた。
今さら別のホテルに移りたいとも言えず、昨日まで一泊1000円ほどの安宿に泊まっていた僕が今日からいきなり高級ホテルに泊まるなんて、人生何が起こっても不思議じゃないなとおかしくなった。僕は覚悟を決めてホテルに泊まることにした。
しかし、僕の心配は完全に杞憂に終わった。このホテルの地下には京劇(中国の歌舞伎のようなもの)の劇場が併設されており、恭子さんが京劇を見たいとの理由でここを取ってくれていたのだが、彼女はすでに支払いを済まし、僕らが払うと言っても受け取らなかった。実は恭子さんと合流してから宿泊費だけでなく、移動費と食費代もほとんど払って貰ってしまい。おんぶにだっこの三冠を達成してしまうこととなった。情けないやら有難いやら胸がいっぱいになった。「また働き始めたら東京で奢ってちょうだい」とだけ言われ、僕は固く約束した。果たしてそんな日がいつかくるのだろうか。。
僕らは北京オリンピックのメーン会場である鳥の巣やカキが以前住んでいた建国門の街を練り歩いた。一人旅の気楽さも良かったが、連れがいることの楽しさと安心感を僕は実感した。
夜は3人で酒盛りをしながら色々な話をした。
9月3日が中国の国家勝利記念日らしく、共産党に反対する人達はこの時期に活動が活発になること。三庄里で無差別殺傷事件が起こり、それが共産党に反対する人の犯行であること。ネットで事件が報道されたが、直ぐに報道規制されたこと。天津の爆発事故も時期的にテロでないかという疑惑があること。長寿番組の司会者が、宴席で毛沢東を茶化した歌を歌って、それがネットにアップされてしまい業界から完全に消えたこと。習近平になってから共産党内部の腐敗が厳しく取り締まられ始めたこと。それでも汚職がたえないこと。それじゃあ意味ないよねと言うこと。などなど。どれも興味深い話しだった。
恭子さんと一緒に故宮博物院天安門広場に行った。
天安門には毛沢東の肖像画が掲げられていた。
その昔、ここに掲げられている肖像画を観たビートルズは中国の権威主義を皮肉り「毛沢東の肖像画を掲げても世界は変えられないよ」と言った。
毛沢東文化大革命は封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創造しようと言う趣旨で始まったものの、蓋を開ければ中国人同士が殺しあい100万人が処刑された。宗教的なもの、文化的なものもかなり破壊されてしまった。
しかし、残念ながらそんな文化大革命を経験しても現在の中国を見てもわかるように「より良い社会を生み出すこと」はできなかった。
中国の覇権主義は現在、アジアに暗い影を落としている。
ビートルズのように何か言おうか。。
今の僕ならこの国を何て言おう。。
僕は中国の文化が好きだし、中国人も大好きだ。
それでもこの広大なはずの国で一種の息苦しさを感じた。
酒が子供にとって毒であるように中国に民主化は時期尚早なのだろうか。そう、今は時期ではないかも知れない。しかし、いつか本当の意味でこの国が「より良い社会」になることを願っている。

書いていればきりがないのでこの辺で北京編を終わりにしようと思う。この後、香港・マカオ編、東南アジア編、南アジア編、中東編、ヨーロッパ編に続き、仁義なき広島死闘編には続かないけど、お金と僕の気持ちが続く限り旅を続けようと思う。
読んでくれて、ありがとうございます。
それでは、また!



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・《はじめまして》と《さようなら》の間にあるもの

北京でも楽しい出逢いがたくさんあった。
まず、ゲストハウスではヤンさんとショウと仲良くなった
。ヤンさんは、同年代の女性で香港の学生が北京に留学するのをサポートする仕事をしていたが、現在は転職活動中らしく、僕も失業中だと言ったら仲良くなれた。中国語の他に英語、日本語、韓国語、少々のスペイン語を話せる才女で、僕が「優秀ですね」と言ったら「はい、優秀です」と言われた。まさか、そんな返答があるとは思わず面をくらった。普通は「そんなことありません」と謙遜する場面なのではないかと思えたからだ。しかし、考えてみれば謙遜なんて日本にしかない美徳だろうし、誉めて素直に受けとられるほうが気持ちが良い気がした。中国語はまったく話せず、英語も堪能でない僕はヤンさんのおかげでゲストハウスの面々と仲良くなることができた。
ショウは西安から旅行に来ていた学生の男の子で、その人懐っこい笑顔を思い出すと今でもほっこりしてしまう。
彼とは良くゲストハウス近くの飯屋に一緒に行った。あるとき炎天下の中、散歩をした帰り道にショウとお茶屋さんに寄った。メニューを見たら烏龍茶があったので、それを注文した。運ばれてきた烏龍茶は湯気がたっていた。良し、暑い中ふーふーして飲むぞ!
違う。圧倒的に違う。
当然冷えたものが出されると思っていた僕は店員さんに「ゴールドはありますか?」と尋ねたが、うろんな物でも観るみたいな目をされ「メイヨー(無いよ)」と言われただけだった。ショウに「何でゴールドが無いの?」と聴いてみたところ「だって健康に悪いじゃない」と屈託なく言われてしまった。なんてことだ冷えた烏龍茶の美味しさを知らないとは。。君たちは4000年も一体何をやっていたんだ。「日本にきたら冷えた烏龍茶をごちそうするよ」と彼に言うと困ったように笑っていた。
ゲストハウスから離れる日、ショウに挨拶をして、「君が日本に来たら案内するよ。かわいい女の子も紹介する」と無責任に約束した。ショウは「それはいいね!ぜひお願いするよ」と言った。これが実現する可能性が低いことはお互いにわかっていた。でもそれで良いのだ。旅ではたくさんの人と出逢うが、《はじまして》と《さようなら》の間隔がとても短く、だからこそ、その間にあるものを大切にしたいと思えた。宿から出る前にショウの枕元にこっそりThank you! Shaw From Junと羽の所に書いた折り鶴を置いておいた。次の日
、彼からBest wishesと題名されたメールがきた「Jun, I saw the paper crane  you folded for me, it means everything to me, thank you so much, I will miss you, have a good trip in China, all the best.
Shaw 」
ありがとう、ショウ。

写真は関係ないけど、万里の長城

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・地下鉄(メトロ)に乗って

北京に到着した次の日、僕は安定門の街を歩いて回った。美術館や公園、昔の宮殿など歩けば歩くだけ新しい発見があって、ちっとも飽きなかった。昼飯は定食屋さんで餃子とチンゲン菜の炒め物を頼んだ。餃子は中国ではポピュラーな水餃子だった。
水餃子を一口食べて驚いた。「う、うまい。」
生地はもちもちしていて、中の餡には、肉と野菜ときのこ。溢れんばかりの肉汁だった
。それから暫く、僕は餃子を食べ続けた。どの店も美味しかったが初めの店に勝るところは無い気がした。ふと、以前にも似たようなことがあったことを思い出した。
僕が社会人になり、大阪で働き始めた頃、同じように関東から引っ越してきた学生時代の親友のI黒くんと一緒に大阪中のたこ焼きを食べ歩いたことがあった。たこ焼きを食べ続ければ大阪の心を理解できると信じ、それを実行したのだ。梅田、難波、天王寺とたこ焼きでパンパンになった腹を引きずり歩いて回ったが、結局得られたのは大阪の心ではなく「一番美味しいのは銀だこ」という青い鳥的な結論だった。
まぁ、例え無駄足だったとしても歩き回ったから得られた結論ではないか。何事もやってみなければわからない。
僕の北京での主な移動手段は地下鉄だった。
北京の地下鉄は非常に分かりやすくて乗り換えも簡単だった。それに安かった(友人の話ではそれでも7年前の倍額らしい)。
僕はどこに行くにも地下鉄を利用し、ガイドブックに乗っていた天安門広場故宮博物院、什悧海、南鑼鼓港、門前大街(漢字は適当)何かの街へ出掛けた。

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印象的な出来事としては王府井大街でサソリを食べたこと。
王府井は日本で言ったら新宿のような古くから栄えている繁華街であった。大きなデパートやビルがある大通りから横路に少し入ると夜市があり、たくさんの屋台とおみやげ屋があった。そしてここの屋台の名物がサソリの串揚げだったのだ。僕は新しいものや試したことがないものがあると試してみたくなる質で、例えそれがどんなに地雷臭がしても挑戦したくなるのだ。
例えば大学一年の頃に参加したフィリピン研修では、現地に到着した初日にバロットを食べた。「君はなんてものを食べてるんだ。僕はまっぴらごめんだ」と友人たちにブーイングをくらったが、気にせず食した。
バロットが何であるかはここでは関係ないし、あまりに衝撃的な見た目であるため詳細は伏せるが、気になる方は自己責任で調べて頂きたい。
《一応》玉子料理とだけ。。
まぁ、とにかくここでサソリに挑戦するのは僕にとって当然と言えば当然だった。ミスチルがアルバムを出せばオリコンランキング1位を取るぐらい当然と言えば当然だった。
サソリ串。まさかここまで産まれたままの姿で登場されるとは。。なんいうか思ったより強そうである。
毒とか大丈夫だよな。と思いながら食す。
感想としては悪くない。が
良くもない。カリカリの食感と味は川海老ぽいが口のなかにざらざらした物が残った。
例え打率が低くてもこれからも新しいものに挑戦し続けよう。いつかホームランを打ってやる!

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最後にもうひとつ地下鉄について。北京の地下鉄は基本的に日本のそれと変わり無いのだか、ひとつだけ大きく違うことがある。それは物ごいの存在だ。ある人は目が不自由で馬琴を演奏しながら社内を歩き、ある人は赤ちゃんを抱えながら、ある人は足を引きずりスピーカーから音楽を流していた老婆だった。後で友人に聴いたらこの音楽は故郷に帰りたくても帰れないと歌っているそうだ。
意外なことにと言うか、多くの人がお金を与えていた。
その人達の姿は何となく僕に人の世の哀れを感じさせた。
僕はこんな時にどう考えればよいのだろう。哀れむ、叱る、励ます。 どれも違う気がするのはなぜだろう。
大学の恩師の赤石先生は、国際社会が抱える貧困を解決する手段として、川を例え話にしていた。川上から赤ん坊が流れて来ているようなものだと。川下で赤ん坊を救う役割も必要だし、川上に行き、なぜ赤ん坊が流れてくるのか確かめて止める役割も必要であると教えてくれた。
今の僕にいわゆる川上にあたる社会構造を変えることは出来ないだろう。でも、お金を渡すことで川下の問題解決の一助になるかも知れない。
しかし、僕はお金を渡すことはしなかった。それが彼らの為になるかは結局はケースバイケースであり、それを見極めることは不可能であった。しかし、いつかお金を渡すことが必要であると確信したら渡すかも知れない。わからない。わからないまま電車は進んでいく。人生を電車に例えるのは陳腐であろうか。今日も僕は地下鉄に乗っている。

北京編 ・玉子だって焼ける大地

日本の成田空港から、中国の北京首都国際空港まで、飛行機でおよそ3時間半。海外旅行の最初のハードル的存在である時差もマイナス1時間なのでほとんど感じずに済んだ。
しかし、時差なんてどうでも良いぐらい暑い。
ひたすら暑い。
気温や湿度は日本よりいくらかマシかも知れないが、日射しが刺すようで痛い。
出発前に観た、中国の人が道路の熱を利用して目玉焼きを作ったというネットニュースもあながちウソではないらしい。
空港からゲストハウスの最寄り駅である安定門駅まで、比較的簡単に来れた。
しかし、そこから宿とは逆方向に進んでしまい、間違いに気づいた時には宿から数キロも離れた場所にたどり着いてしまった。
まだ正確な場所も理解出来ず、道行く人に尋ねても、わからないか各々別々の方向を指差し余計に迷った。親切にも宿まで案内すると言ってくれたお姉さんもいたが、長距離を同行してもらうのが忍びなくて結局断った。
大切なことを他人任せにしてはいけないと言う当たり前の人生訓を僕は初日にして実感した。
無駄な出費を抑えるべくタクシーの利用はしまいと決めていたけど、重いザックを背負い、Tシャツを搾れるほど汗をかいていた僕は、このままでは熱中症になると考えた。
そして、初日にして死んでしまっては元も子もないと言う唯一にして絶対的な結論に達した。
北京の車は人にも地球環境にも優しくない荒々しい走りっぷりをしていて、炎天下の中で暫く待たせられた。ようやく止まってくれたタクシーのおじさんにゲストハウスの場所を告げると、OKと言ってくれ、タクシーはスムーズに走り出した。
いや、スムーズ過ぎる。タクシーのスピードメーターは上がり続けた。僕の不安メーターも。慌てて僕は「そんなに急いでないです」と伝えたがOK、OK!と笑顔で振り返ってきた。
タクシーのおじさんはアクセスをまるで積年の怨みの相手のように力強く踏みしめ、僕はキアヌ・リーブス主演の映画スピードを思い出した。(犯人が仕込んだ爆弾を乗せたバスは時速80キロを下回ると爆発する)
あぁ、これは死ぬしかないなと妙に清々しい気持ちにもなったが、僕の心配とは裏腹にタクシーは無事に宿に着いた。
ホームゲストハウス。ここはネットで調べて事前に予約していたのだが、なぜこのゲストハウスにしたかと言うと雰囲気が実家に似ていたからだ。と言うのはウソで、むしろ大阪の西成とか新大久保の路地裏のようなそこはかとなく危ない感じのする道に面していた。
まぁ、とにかく安かったのでここに決めたのだ。
しかし、実際はいってみるとバーが併設されたお洒落な造りで、スタッフは英語が通じて親切だった。Wi-Fiも利用できた。トイレは。。うん。トイレは見なかったことにしよう!
ベッドに、入って眠りにつく前、僕は経験したことのないドキドキとワクワク、少しの不安を感じていた。
いよいよ旅が始まるぞと。
そう、とにもかくにも僕の旅がここ北京から本格的に始まることになった。



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旅に出る理由のようなもの

 僕がまだ学生だったころ。当時の僕は就職活動を終え、最後のモラトリアムとも言える時期にいた。就職してからのことを考え、いそいそと資格の勉強に勤しむなくてことはなく、何をするでもなくぼんやり過ごしていたように思う。

そんな日々の中で、たくさんの映画を観ていた。特に印象に残っているのが、ショーン・ペンが監督した「イントゥ・ザ・ワイルド」実話を基にしたロードムービーで、主役のクリスは家庭環境に問題を抱えながらも、優秀な成績で大学を卒業する。しかし、約束されたエリートの道があるにも関わらず、過剰な物質主義に疑問を感じて、旅に出ることを選ぶ。全財産を寄付し、無一文になりながら、現代社会で生きているだけでは得れない経験し、会うことのできない人たちに会っていった。過酷な旅の果てに目的地のアラスカの大地にたどり着く。そして、不慮の事故でその生涯を閉じることになる。彼が最後にたどり着いた「幸せは分け合えた時初めて現実になる」という答えと、その生きざまは僕に強い衝撃をあたえた。そして、同時にある疑問を投げ掛け続けた。それは「今の生き方で本当にいいのか?」と言う根源的な疑問であった。その疑問は働き初めて3年がたっても音叉を鳴らした時のようにいつまでも、いつまでも僕の中で響いていた。

僕が仕事を辞めて世界一周の旅に出ようと決めた理由は1つじゃない。先ほどの「イントゥ・ザ・ワイルド」を観たこともそうだし、母が若い時から日本中をヒッチハイクで旅をしていたことに影響を受けたのかも知れない。友人や先輩が世界中を旅してまわっていることに刺激を受けたのもある。でも、つまるところ僕自身が旅をする経験をしたかったのである。旅することが目的の旅。旅をすることで訪れる自分の変化を観てみたいのだ。旅をするのに大義や理由なんてある意味いらないのかも知れない。
 また、自分探しがしたい訳ではない。そもそも自分はここにいる。海外に行こうが宇宙に行こうが、向き合わなくてはいけないのは自分自身であることに変わりはないのだ。

「世界一周の冒険の旅に行くんだ」なんてピーターパンシンドロームを全面に押し出したと思われる主張をしても両親は許してくれたし、多くの友人は好意的に受け入れてくれた。
自分の身勝手な行動で多くの人に迷惑と心配をかけ、社会的な信用も損なうことにもなる。
それでも旅を続けるべきだったかどうかはこれからの僕にかかっているのだろう。

タイミングとは不思議なもので僕が旅に出ようと決意してから、抱えていた仕事の目処がたち、金銭的にも何とかなりそうなほどのお金が用意できた。両親は健在だし、世界を巻き込む大きな戦争だって起きていない。
すべての物事が僕に行けと言っているようだった。タイミングの門を開く鍵は、機会を待つことではなく「臆せず行動すること」なのだろう。


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