Welcome Aboard -旅するために旅をする

現在、絶賛無職中の僕が、世界中を旅するブログです。

・地下鉄(メトロ)に乗って

北京に到着した次の日、僕は安定門の街を歩いて回った。美術館や公園、昔の宮殿など歩けば歩くだけ新しい発見があって、ちっとも飽きなかった。昼飯は定食屋さんで餃子とチンゲン菜の炒め物を頼んだ。餃子は中国ではポピュラーな水餃子だった。
水餃子を一口食べて驚いた。「う、うまい。」
生地はもちもちしていて、中の餡には、肉と野菜ときのこ。溢れんばかりの肉汁だった
。それから暫く、僕は餃子を食べ続けた。どの店も美味しかったが初めの店に勝るところは無い気がした。ふと、以前にも似たようなことがあったことを思い出した。
僕が社会人になり、大阪で働き始めた頃、同じように関東から引っ越してきた学生時代の親友のI黒くんと一緒に大阪中のたこ焼きを食べ歩いたことがあった。たこ焼きを食べ続ければ大阪の心を理解できると信じ、それを実行したのだ。梅田、難波、天王寺とたこ焼きでパンパンになった腹を引きずり歩いて回ったが、結局得られたのは大阪の心ではなく「一番美味しいのは銀だこ」という青い鳥的な結論だった。
まぁ、例え無駄足だったとしても歩き回ったから得られた結論ではないか。何事もやってみなければわからない。
僕の北京での主な移動手段は地下鉄だった。
北京の地下鉄は非常に分かりやすくて乗り換えも簡単だった。それに安かった(友人の話ではそれでも7年前の倍額らしい)。
僕はどこに行くにも地下鉄を利用し、ガイドブックに乗っていた天安門広場故宮博物院、什悧海、南鑼鼓港、門前大街(漢字は適当)何かの街へ出掛けた。

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印象的な出来事としては王府井大街でサソリを食べたこと。
王府井は日本で言ったら新宿のような古くから栄えている繁華街であった。大きなデパートやビルがある大通りから横路に少し入ると夜市があり、たくさんの屋台とおみやげ屋があった。そしてここの屋台の名物がサソリの串揚げだったのだ。僕は新しいものや試したことがないものがあると試してみたくなる質で、例えそれがどんなに地雷臭がしても挑戦したくなるのだ。
例えば大学一年の頃に参加したフィリピン研修では、現地に到着した初日にバロットを食べた。「君はなんてものを食べてるんだ。僕はまっぴらごめんだ」と友人たちにブーイングをくらったが、気にせず食した。
バロットが何であるかはここでは関係ないし、あまりに衝撃的な見た目であるため詳細は伏せるが、気になる方は自己責任で調べて頂きたい。
《一応》玉子料理とだけ。。
まぁ、とにかくここでサソリに挑戦するのは僕にとって当然と言えば当然だった。ミスチルがアルバムを出せばオリコンランキング1位を取るぐらい当然と言えば当然だった。
サソリ串。まさかここまで産まれたままの姿で登場されるとは。。なんいうか思ったより強そうである。
毒とか大丈夫だよな。と思いながら食す。
感想としては悪くない。が
良くもない。カリカリの食感と味は川海老ぽいが口のなかにざらざらした物が残った。
例え打率が低くてもこれからも新しいものに挑戦し続けよう。いつかホームランを打ってやる!

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最後にもうひとつ地下鉄について。北京の地下鉄は基本的に日本のそれと変わり無いのだか、ひとつだけ大きく違うことがある。それは物ごいの存在だ。ある人は目が不自由で馬琴を演奏しながら社内を歩き、ある人は赤ちゃんを抱えながら、ある人は足を引きずりスピーカーから音楽を流していた老婆だった。後で友人に聴いたらこの音楽は故郷に帰りたくても帰れないと歌っているそうだ。
意外なことにと言うか、多くの人がお金を与えていた。
その人達の姿は何となく僕に人の世の哀れを感じさせた。
僕はこんな時にどう考えればよいのだろう。哀れむ、叱る、励ます。 どれも違う気がするのはなぜだろう。
大学の恩師の赤石先生は、国際社会が抱える貧困を解決する手段として、川を例え話にしていた。川上から赤ん坊が流れて来ているようなものだと。川下で赤ん坊を救う役割も必要だし、川上に行き、なぜ赤ん坊が流れてくるのか確かめて止める役割も必要であると教えてくれた。
今の僕にいわゆる川上にあたる社会構造を変えることは出来ないだろう。でも、お金を渡すことで川下の問題解決の一助になるかも知れない。
しかし、僕はお金を渡すことはしなかった。それが彼らの為になるかは結局はケースバイケースであり、それを見極めることは不可能であった。しかし、いつかお金を渡すことが必要であると確信したら渡すかも知れない。わからない。わからないまま電車は進んでいく。人生を電車に例えるのは陳腐であろうか。今日も僕は地下鉄に乗っている。